義務教育を振り返って 学びの意義はなんだろう
突然ですが、私はいま問いたい 学びとは何か !!
この問いは教授との日常的な話題として挙がったものだったのです。
それが思いのほか盛り上がり考えさせられました。なので、誰かの目にとまらないかな〜 他の人はどう考えているのだろうと思いました。
この問いの本質的な背景は、現在の教育への不満から始まりました。
私は中学生くらいの頃から学業に対しての閉塞感を感じていました。
閉塞感というのは、全ての問いや行動に模範解答があって、学生(生徒)は解答に忠実であることが求められている点です。失敗を恐れ、足並みを揃えることが正義であるかのような、、、。それが大学院生である今でも感じてました。
これを教授に話したところ、教授も同様に感じているようで、「自分の意見が言えない、研究に模範解答があると思っている学生が年々増加している」と、
ただ、教授は付け加えて「研究室に来て優秀な学生は、大学入学までに学習することの楽しさや意義が理解できている奴に多い」とも言っていました。
話していて私は、いや教授! 現在の教育ではそりゃ無理ですよw 学問の意義なんて考える暇ないですもん、楽しいからと言って点数はもらえないですもん。現環境でそれを伝えられる先生います? だって先生もゆとり教育受けてますから
とか、思っていました。そこでおおよそ会話は終わったわけですが、大学院生になった今、これまでの学びや教育について振り返ると、どんな意義があったんですかね?
ちょっくら、"これまでの学び"について考えてみようかと、、、
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・学びとは(個人的見解)
私の意見は、本質的な学びとは"自己満足" だと思います。
なんかスッキリしない解答ですよね、切れ味悪いなと思いますよね、、、
私は"今における学び"というのは、テストで点を取る事って意味合いが強いように感じます。一方で、私が認識している学びは「勉学に限らず、運動や芸術、話芸などを含めて自分が知らないことを新たな知識として収集し、結果それが自己の満足感につながっていること」だと考えています。
だから、"自己満足" とまとめました。
自分が満足していない知識の収集を"学び"と呼んで良いのか私は疑問です。
例えば、友人のお母さんの名前を覚えた事を"学び"とは感じないはずです。それは自分が欲していない知識だからです。対して、クイズ番組でウンチクを知ってそうなんだ〜という喜びは自己満足に属するかと思います。つまり"学び"です。
ここで、私の義務教育を振り返り自己満足があったかと問われると、数学にはあったと、私は学んだと堂々と言えます。ただ、それ以外の教科はどうなんでしょう。国語や英語など本来は多岐にわたる解答を、自分の中でねじ伏せて模範解答を一生懸命に暗記していた覚えがあります。
その原因は、本質的な理解をして自己満足を得るよりも、模範解答を暗記した方が他者評価(成績)が高いからではないでしょうか。
つまり、義務教育における"これまでの学び"は強制的な思考の放棄では??
・義務教育を経て、ゆとり世代と言われる我々
このような環境下では、「自分の意見が言えない、研究に模範解答があると思っている学生」が出現する頻度が増すのは当然の帰結です。むしろ、作為的に上記のような学生を生み出したと理解するのが妥当です。
そして、続々と高校・大学を経て社会へと学生は出ていくわけですが、使えない、常識知らず、コミュニケーション能力が低いと世間ではよく言われ、ひいてはニートや引きこもりが発生し、年々増加傾向であることは周知事実ではないかと思います。
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でも、模範解答だけをなぞって来ただけでは、自分の人生にはどんな可能性があってどんな選択を迫られ、どの時にどう動けば良いかわからないのは当然ではないでしょうか。
本質的な学びを理解し、個々人がオリジナリティを発揮できる社会にはなにが必要なんでしょうかね。これまでの教育はつまらなかった気がします。
コロナウィルスが猛威を奮っていますが、その中で自分の考えを持って決断できる人間は就活でも進学でも跳ね除けていくことでしょう。